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教育研修基礎理論−分類整理 畑 彩土


一般意味論 


コージブスキー


一般意味論とは

一般意味論は、言語化に伴ういろいろな人間の反応や行動について研究しようとする理論である。

これは、1933年、ポーランド系アメリカ人のコージブスキー(Korzybski,A)によって唱えられた。この理論は、ことばの正しい使い方を目指すものであり、その意味で教育−とくに言語教育やカウンセリングにも大いに役立つ。
 

 一般意味論とは何かという「定義」について、指導者の一人ラポポート(Rapoport,A)はこう言っている。

「一般意味論は、人々がいかにことばを用いるか、またそのことばが、それを使用する人々にいかに影響を及ぼすかについての科学である」
そして、一般意味論と文法・論理・(哲学的)意味論との違いを次のように述べている。

文法−語と語の関係(語が正しい順で結びつけられているか)

論理−文(命題)と文(命題)との関係(文が互いに正しく関係しているか)

意味論−語や文と、それの指示する対象(もの・こと)との関係(文がものごとと正しく対応しているか)

一般意味論−語、文、およびその対象に関係するだけでなく、それが人間の行動にどう効果を及ぼすかに関係する(事実→神経系→言語→神経系→行動)

 

一般意味論の根本原理

 コージブスキーは、一般意味論の根本原理として、次の3つをあげている。

1.非同一(non-identity)の原理

2.非総称(non-allness)の原理

3.自己反射(sejf-reflexiveness)の原理

これは、言いかえると、それぞれ次のようになる。
 

1.「地図は現地ではない」(コトバは、それが指示するモノそのものではない)

 これは本来ならば、非総称の原則に含まれるものであるが、コージブスキーが、この1を独立させた意図は、次のとおりである。すなわち、ただ言語が事実とちがうというだけではない。大切な点は、言語が神経系の機能に影響を与えるという点である。人々はまるで、コトバ=モノのように振る舞う。それを避けるには、「外在的」(extensional)な考え方をしなければならない。外在的に考えるとは、モノそのものを見通す、すなわちモノ(コト)の独自性に気づき、「変化」を認識するということである。 

2.「地図は現地のすべてを表すものではない」(コトバは何事につけてもそのすべてを言いつくすことはできない)

 私たちの認識には限界があって、もののすべてを認識することはできない。また、どんなに定義を重ねても、ものを完全に表現しつくすことはできない。私たちが何かを認識し、それをことばで表すということは、すでに現実を抽象していることになるのだが、そこには必ず見落とされたこと、言い残したことが存在する。抽象の裏には捨象があるのだ、ということを忘れてはならない。 

3.「地図は、それ自身の地図を含む(コトバについてのコトバについての……コトバを語ることができる)

 地図についての地図は、はじめの地図とは次元がちがう。また地図の地図は第三次の地図だ。同様にモノについてのコトバ、コトバについてのコトバというように無限にさかのぼることができる。このような、「コトバについてのコトバ」を「メタ言語」という。(メタ言語について論じるコトバはメタメタ言語となる)

一般意味論の原則 

1.地図は現地ではない

 あるデパートでこんな実験をしたという話がある。ある日、そのデパートでは、ハンカチ売り場の両端に二山のハンカチを陳列した。そして一方には「織りの柔らかいアイルランド麻のハンカチーフ、特価3枚50セント」という札をつけ、他方には「手ふき3枚25セント」という札をつけておいた。ところが、8時間の間に、26人の人々が「アイルランド麻」を手に取って見て、その中の11人がそれを買ったのに対して、「手ふき」の方は、たった6人が調べてわずか2人が買っただけだったという。−それは両方とも同種のハンカチだったのである。「あのお客たちはちっとも商品を見ませんでした」とは売り場の女性のことばであった。

 また、アメリカの言語学者ウォーフは、長いこと火災保険会社に勤めていて、火事の原因についての報告を分析する仕事にたずさわっていた。が、そのときかれは、空っぽのドラム缶が火災の原因になったり、石灰置き場から発火することがあるということを発見した。調べてみると、人々は「空き缶」ということばに安心して、ほんとうは気化したガソリンが缶内に残っているにもかかわらず、そのそばへタバコの吸い殻を捨てていたり、石灰ということばに「石」という文字が入っているため、石が燃えるなんて考えもしないで、火に対する注意をぜんぜんしなかったということがわかったという。つまり出火の原因は、なんと「ことば」にあったのである。

 この2つの例は、ともに人間がいかにことばを過信しているか、いや、「ことば=物そのもの」とカンちがいすることがいかに多いかを示しているといえよう。私たちは、ことばを過信せず、あくまでも実証的にに「事実そのもの」へ迫らなければならない。一般意味論では、「ことば」と「ものごと」との関係を表すのに、「地図は現地ではない」といっている。すなわち、地図は現地を知るための有力な手引きではあるが、現地そのものではない、この両者を混同するところにいろいろな誤解や問題が生じるのである。私たちは、常にことばの背後にある事実そのものに目を向けること、事実第一主義・観察第一主義をとることが必要であろう。

 古代人や原始民族の間によくある「忌みことば」も、「名には実体がある」という言霊(ことだま)的な信仰からきている。これは、「あることばを唱えることによって、そのことばの内容が実現する」という考えである。しかし私たち現代人も、この点に関しては、一皮むけば原始人とあまり違わない。結婚式には吉日を選ぶし、科学研究所を建てるとなれば、地鎮祭には神主を呼んで祝詞をあげてもらったりする。また、受験生に向かって「落ちる」「すべる」といったことばを使わないように用心することもある。

2.報告・推論・断定の区別

 報告というのは、観察にもとづいた客観的事実をそのまま述べることである。推論は、報告されたことがらにもとづいて抽象したり、他の経験と関連づけたりして、まだ知られていないことについて述べることである。さらに断定というのは、報告や推論で述べられている事実についての自分の評価(良い、悪い、好き、嫌い)という意味でここでは使っている。私たちは誤った判断に陥らないためには、この3つをハッキリ区別することが重要である。

例えば、

「A博士という名前と、医者のマークをつけた自動車が、B氏の家の前にとまっている」−これは報告である。

それに対して、

「B氏のでは、だれかが病気に違いない」とか、

「A博士の男の子がB氏の女の子のところへ遊びに行っているのだ」

などというのは、推論である。同様に、

「事務のK子は昨夜家に帰らなかった」は報告であるが、

「彼女はボーイフレンドとどこかのホテルへ泊まったにちがいない」は推論だし、さらに、「彼女は身持ちがわるい」は断定を含んでいるといえる。

私たちは、とかくこの3つを混同して、判断を誤ることが多い。例えば、トラックの運転手が、道の真ん中に置いてあるダンボールの箱を、実際には子どもが中に入って遊んでいたのに、てっきり空だと思ってひいてしまったという話がある。調べに対してその運転手は、まさか子どもが入っているとは思わなかったと語ったという。

 このような混同は、名作の中にもよく出てくる。シェイクスピアの「オセロ」の中で、主人公のオセロが貞淑な妻デスデモーナを疑って、ついに殺してしまうというのもそうであるし、モーパッサンの「頸飾り」も良い例である。また、プルターク英雄伝の中で、英傑シーザーを刺したカシアスが、シーザーの甥オクタビアヌスとアントニオの連合軍と戦った際、向こうから敵に勝ってかけつけてきた味方の救援軍を敵と誤認して、自殺してしまったというのも、こうした混同によるものといえよう。

 しかし、ここで問題となるのは、私たちが報告の文章を書いたり、また話したりするとき、推論や断定をまったく含まない、いわば純粋に客観的な報告ができるだろうかということである。同じものを見たり聞いたりしても、そのものに対する私たちの態度(そのものに好意をもっているかいないかなど)によって、見た瞬間に私たちはすでに一つの身構えをもってしまっていることになる。例えば、同じ硬貨を子どもに見せても、下層階級の子どもたちは実際より大きく知覚したというブルーナーの報告もあるし、同じフットボールの試合を見せても、自分がどちらのチームを応援するかによって両軍の反則についての報告に大きなくいちがいが生じる。すなわち、私たちは物事を「知覚」することの中に、もうすでにある種の意味づけのワクを持ち込んでいることがわかる。比喩的にいえば、私たち一人一人が皆それぞれの色眼鏡やフィルターをかけて物事を見ているというわけである。さらに、正確に見たつもりでいながら見誤っている場合もあり、人間の感覚はとても当てにならないとさえいえる。

 こうして考えてみると、ふつう客観的だと思われている「報告」も、実はゆがんでいるという場合のあることがわかる。また、私たちは、とかく「数字」になっていると、それが本当のような気がするという傾向をもっている。新聞の世論調査をはじめ、いろいろな統計は、そのままうのみにされることが多い。しかし、これも少し検討してみると、統計の魔術・カラクリのあることが意外に多い。

 以前、次のような話があった。日本では近年、乳児の死亡率が激減しており、これはまさにノーベル賞ものだとWHOが称賛しているという記事が新聞に出ていた。ところが、その翌日になると、実はこれは統計の基準のとり方がちがうので、日本の場合は、生まれてすぐ死んでしまった赤ちゃんは死産の中に入れてしまうため、欧米諸国よりもずっと少ないのだということであった。これなどは、そもそも計算の基礎が違っていたわけであるが、その他サンプルのとり方や、算定の方法によってずいぶん違った結果が出るのである。

 以上、報告の文章さえも純粋に客観的なものはなく、主観的な要素が入ることを述べてきた。しかし、ここで重要なことは、主観的なものが入りこんでいるということを自覚する、気がつく、ということである。つまり、報告の中にさえも主観性が入りこんでいるのであるからそういう報告には価値がないとか、推論や断定をしてはならないとか、いうことではなくて、危険なのは、そうした報告や推論を、事実そのものと思い誤ってしまうことなのである。まして、送り手が受け手に対して、ある感化的な印象を与えるように(事実そのものよりも好ましい感じを与えるように、または好ましくない印象を与えるように)意図的にある意味を含ませる場合に、その危険性は大きい。例えば、ある政治的な集会に50人の聴衆が集まったという事実を述べる際、「50人も」と書くのと「50人しか」と書くのとでは、印象がだいぶちがう。また、「彼女は夫の仕事に深い関心をもっている」というのと「彼女は夫の仕事によく口を出す」というのとでは、聞き手に訴える感じはずいぶんちがう。こうした「含ませ(色づけ)」を自覚し見破ることが、公平な、正しい判断に達する道である。 

3.抽象のレベルに注意せよ 

 ことばには、ジョン、ポチのように具体的な個物を表す単語もあるし、犬、机のように一般的な一つの類を表す語もあり、さらに平和、正義のように形のない抽象的な観念を表すものもある。すなわち、ことばは、いろいろなレベルの抽象を表せるほどに多様である。討論、論争のときなど、この抽象の段階の混同が行われると、論がかみ合わないし、また、抽象度の高いレベルで論じ合っても、実りのない論争になってしまうことが多い。したがって、それを避けるためには、できるだけ抽象度の低い段階で具体的に話すことが大切である。例えば、「日本は軍事大国化している」か「していない」かというような抽象度の高い段階でいくら「いる」「いない」と論じ合ったところで、なかなか意見の一致は見られない。はては「見解の相違」というキマリ文句が出てきてしまう。それよりも、自衛隊の予算が10年前にはどうであったか、5年前はどうか、それが現在ではどうなっているか、全予算の中で占める割合はどう変化しているか、装備の面ではどうか……など具体的な段階で論じれば、これこれの点までは一致できる、しかしここのところで解釈や評価という点で両者の見解が分かれるというふうに、一致点と相違点とがはっきりする。

 そこで、ハヤカワは、コージブスキーの「構造の微分」という考え方をもっとわかりやすい形で、「抽象のハシゴ」と名づけ、それを使ってことばの抽象度について注意を喚起している。

 ただここで注意すべきことは、抽象すること自体、けっして悪いこと、いけないことだといっているのではないという点である。むしろ学問の進歩は抽象概念を駆使するところから生じるのである。大切なことは、抽象の段階を自由に上下できるような柔軟な思考ができるということである。私たちが正しく思考するためには、具体の海から抽象の空へかけ上がり、また下りてくるという上下運動を活発にくり返さなければならない。 

4.「である」の正体を知れ 

 「AはBである」という形の文を見ると、私たちはすぐ、A=Bと判断しがちである。論理的には、「6年生は最上級生である」のように、A=Bの関係にあるものと、「かれは犯罪者である」のように、AがBに含まれる(A⊂B)ものとが区別されるわけであるが、ここでは少し違った角度から考えてみたい。

 例えば、「かれは犯罪者である」という文を見ると、まるで犯罪者というものがかれの本質的属性として永遠に不変なものであるかのような印象を受ける。しかし、もう一歩考えてみると、例えばかれは3年前に出来心で一度罪を犯したが、現在は社会に復帰して立派な市民になっているかも知れない。そういう条件の変化が「である」という固定的な表現によって覆われてしまうことがある。それを防ぐには、条件をはっきり明示すること、事実の報告というレベルで考えることが必要である。

 次に、「である」を含んだいくつかの文を比較してみよう。

(1)人間は動物である

(2)彼女は美人である

(3)警官は弱い者の味方である

(4)2たす2は4である

(5)ダイヤモンドは最も硬い鉱物である

これらは形式的にはみな「AはBである」であるが、それぞれの意味や用法はみな違っている。いま、この5つの文がどれも「真」だとされるならば、それはどういう意味でなのだろうか。

(1)は人間が動物という類に包含されることあるいは分類を表す。

(2)は、(1)と同じく分類を表すとも考えられるが、それよりも価値判断、主観的評価を表しているといえよう。

(3)は、事実としてそうだということよりも当為(……すべきである)として解釈できる。これを指令的意味という。法律の文章もこれに属する。

(4)は、数学で使われる分析的判断を表す。

(5)は、科学的に実証されうるという意味をもった判断である。 

「である」の持つ意味は、このようにさまざまである。私たちは、この単純なそしてよく使われることばの正体を知り、正しく理解することが必要である。 

5.二値的考え方から多値的考え方へ 

 二値的考え方というのは、物事を白か黒か、良いか悪いか、敵か味方かというように、排他的な2つの極に分類して考えることである。それに反して多値的考え方というのは、この2つの極の間に様々な度(程度)があることを認めようとすることである。ハヤカワによると、ナチスドイツの考え方は二値的考え方の典型的な例であって、非ナチス的な本を広場に集めて焼いたり、ユダヤ人を虐殺したりしたのもそうした考え方に由来しているという。これに反して多値的考え方の例としてかれは、裁判の際の情状が酌量されることや、民主国家の議会で反対党が修正案を出し、その結果決定が妥当な線に落ち着くことなどをあげている。

私たちは、興奮して感情的になると、とかく二値的に考えがちである。脳細胞の働きは二進法(ONか0FFかの)で進められるといわれるし、身体の器官で、目や耳など2つずつの対になっているものが多いことから考えると、人間が二値的にものを考えようとするのは、生理的に基礎づけられた最も基本的な考え方なのかもしれない。また、だからこそ、「行動のことば」すなわち私たちを行動に駆り立てるスローガンは、二値的表現を使う。それに対して、私たちが心にゆとりを持ち、冷静に考えるときは、多値的に考えることができる。したがって、一般意味論で多値的な考え方を提唱しているのは、冷静に事柄を見つめようという態度に連なっているのである。日本では、冷静な話し合いによってお互いに妥協し、意見を修正していくという伝統が少なかった。反対意見が出ると、すぐにカッとなってしまうか、あるいは会議や話し合いを離れたところで寝技や腹芸によってウヤムヤのうちに決めてしまうということが、何事につけても多かった。しかし、最近になって、とくに若い世代では、納得のいくまで話し合ってきめるという習慣がだんだん定着してきているようである。これから国際人として活躍すべき私たちは、「他人はもともと自分とは考えが違うものだ」という、価値の多元性を認識していくことが必要である。

6.シグナル反応からシンボル反応へ 

 夏などに、窓をあけ放しておくと、よく小鳥や大きな虫が飛び込んでくることがある。そういう時、かれらは出口を求めて天井にぶつかったり、壁にぶつかったりバタバタやったあげく、スィーと外へ飛び出していく。これが人間だったならば、まず周囲をよく見回して出口はどこかと考えてから行動するのがふつうであろう。ところが、その人間でも、例えば満員の映画館で火事が起こったような場合、この小鳥たちに近い行動をとることがある。われ先にと狭い出口に殺到したり、引いてあける出口を逆に押してあけようとしてしまったり、あわてるからよけい混乱してしまうのである。また、魚が人間に釣られるのも同じことで、おいしそうな餌だと思うとすぐにパクッとやってしまうから、その先にピカピカ光る針がついていることに気がつかない。「ちょっと待てよ」と考える余裕がないのである。

 これらは、ちょうど動物がシグナルに反応するようなもので、刺激Sに対してすぐに反応Rを起こしてしまうのである。

 しかし、今まで述べてきた一般意味論の原則をわきまえている人は、もっと別の反応、すなわちシンボル反応ができるはずである。つまり、問題状況に対して、すぐに行動はとらず、「待てしばし」と考えるという態度がとれるはずである。そして、それができるためには、さっきの映画館の火事のようにあわてたりせず冷静に事態を見つめ、時々刻々に変化する環境に対して適応性をもつことが大切である。それには心の弾力性(リラックスすること)も必要だ。また、「ちょっと待ってください。もう少し調べましょう」といえる態度を養うことである。一般意味論では、以上のような態度をもつことを望んでいる。 

7.ものの独自性を見よ−日付けと見出し番号をつけよ 

 私たちがものに名前をつけるのは、ものを分類することにほかならない。すなわちa……aから共通な性質を描き出して、それをAと名づけるのである。一方、そういう共通性と並んで、一つの類(クラス)のメンバーである各々の個物には、そのものだけがもっている独自性があるはずである。ところが私たちは、あるものを分類しそれに名前をつけると、とかくその共通性だけに目を向け、その個物の独自性、他との差異性には注意を払おうとしなくなる傾向がある。そのためよく「十把一からげ」的な発言、(「大人ってみんな…」「近頃の学生は…」)をするようにもなる。

 また、日本人は、ふつう欧米人を見ても、すぐには人種を区別できないし、またかれらも日本人、中国人、タイ人などの区別はなかなかできない。それに反して、例えば羊飼いは、自分の飼っているたくさんの羊をちゃんと識別できるという。どんなものでも注意深く観察すれば、共通性と同時に独自性をもっていることがよくわかるのである。

 さらに、同一のものでも、時々刻々に変化していく。ギリシャの昔、哲学者ヘラクレイトスは「万物流転」を唱えた。5年前の太郎は今の太郎ではないし、同じ自衛隊でも10年前と現在とでは、予算の面でも装備の面でもケタ違いである。そこにはもちろん、その間を通じて変わらない不変性、共通性もあるし、同一の名前で呼ばれるために、人はつい共通性のみを念頭においてしまうが、実はそこには差異性もあるということを認識しなければならない。 

 そこで、一般意味論では、日付けと分類番号をつけようと主張する。同じ「平和」ということばを使っても、アメリカと中国とでは意味内容が違っている。狼にとっては、平和とは羊が自由に食べられる状態を意味するのに反して、羊にとっての平和とは、狼のやってこないような状態をいうのである。つまり平和1は平和2ではないのである。

 また、この考え方は人間の見方にも影響する。ある会社で一人の男を「前科者」だったからという理由で不採用にした。その会社の幹部は次のように考えたのであろう。

「以前新聞で前科者が社会へ出てからまた悪事を働いたという記事を見た。この間もそんなことがあったそうだ。前科者は結局前科者だ」と。

 しかしながら、なるほど前科者1は社会に復帰してまた刑務所へ送り帰されることをしでかすかもしれないが、前科者2は、更生の気持ちに燃えているかもしれない。もしそうだとしたら、この会社の処置は、一人の人間の更生の気持ちを打ち砕いたことになってしまう。

 この点に、私たちは、一般意味論の「唯名論」(実在するのは個物だけであり、普遍などというものは名ばかりのものだという考え)的な性格を見いだすことができる。人々がとかくステレオタイプな十把一からげ的な考えをすることを戒めて、個物の独自性を主張していることは、その限りでは正しいと思う。しかし、同時に次のような危険性も指摘しないわけにはいかない。例えば、「資本家は横暴だ、労働者の敵だ、と労働組合員はいう。しかし、ものの独自性をよく見たまえ。なるほど資本家1はあくどい人間かも知れぬが、資本家2は温情あふれる経営者で、従業員の面倒をよく見る。だから、一般論をふりまわすのはいけない」と。けれども、それら個別の資本家の独自性にもかかわらず、資本家というものの社会的な階級性から規定される「本質」(これは抽象によってのみ把握できる。ここに「理論」の重要性がある)を見逃してはいけないと思う。 

8.Non-Allness−ETCをつけよ 
 
Non-Allnessというのは、ことばは物のすべてを表すことはできない。また私たちは物事のすべてを知ることはできないものだという意味である。さきに、報告とは観察した事実を記述したものだと述べたが、私たちは報告のもとになる事実(もの・こと)の世界を果たしてすべて網羅してつかんでいるであろうか?もちろん否である。観察できるのは、当の事実の中の一部にすぎない。つまり私たちは「事実」の一部を切り取って、それについての報告をし、さらにそれに基づいて推論を加える。しかしその場合、見残しているもの、見落としているものが常にあることを忘れてはならない。さらに、観察した事実を述べるとき、ことばでそのすべてを尽くすことは不可能である。ことばは常にものの性質の一部を言い表しているにすぎない。

 このことをわきわえている良い受け手は、送り手の言い足りないところを補って理解することもでき、また、悪意ある送り手が、わざとあることを言わずにゴマかそうとする−いわないウソ−を敏感に感じとることができる。

 一般意味論では、「私たちはすべてを語り尽くせないのだから、どんな文章にも言い残した側面が必ずある、ということを示すために、ETC(等々)ということばをつけよう」と忠告している。ハヤカワは、話をしていても、しばしば“and so on,so on”ということばを口癖のように使っている。

 一方、生活態度からいえば、Allnessというのは、自分のすることがすべて100%完全であると思っている人のとる態度、つまり独善的・閉鎖的態度のことである。こういう態度をとる人は、他人の話を聞いても自己本位の解釈しかできず、早合点したり、また新しい情報や知識を受け入れることができない。そういう態度をなくすには、「自分にはわかりません」と恥ずかしがらずにいうこと、そして「それについてもっと話してください」という習慣を養うことである。また、自分のいうことで物の全部がいい尽くされているかのように人々が行動すれば必ず誤りを犯す。「ちょっと待ってください。もう少し調べましょう」という謙虚な態度をとるべきである。 

9.かぎかっこ(引用符)をつけよ 

 日常のことばは意味規定があいまいであり、同一の語でも人によって微妙に異なった意味で用いられる。このことを意識させるため、とくに抽象語や強調したい語や色づけがなされている語には、かぎかっこ(「…」)をつけるのがよい。それによって読み手は、そのことばが独特の(特別の)意味で用いられていることを知ることができるのである。

 例えば、JRがまだ国鉄であったころ、組合の闘争手段の一つとして順法闘争という戦法がとられたことがある。信号が変わってもそれを十分に確認する時間をとってから動き出すとか、駅に停車しても乗降が済んでそれをゆっくり確認してから発車するとか。……これらは確かに法を順守しているには違いないのだが、それではどんどん時間が経って遅れてしまう。そこで当局は、駅長名で各駅に次のような掲示をした。

「今般の労働組合による、いわゆる「順法闘争」なるものは違法行為であり……」

 なお、読み手の側にとっても、心の中で「かぎかっこ」をつけて読むという態度が必要であろう。 

10.ハイフンをつけよ 

 時間や空間は切れ目なく続いている。ところがそれを表現することばはその連続体に境目をつけ区切る役割を果たしているのである。 しかし、このような断片的なことばで、連続的な世界を表し、現実そのものに迫るためには、要素間のつながりを示すハイフンをつけるとよい。

 例えば、「精神−身体医学」とか「空間−時間」などである。ドイツの実存哲学者ハイデッガーは、現存在の根本的な特徴として、「世界−内−存在」(in−der−Welt−sein)という造語を工夫している。

 日本語では、ハイフンよりも「・」のほうが多く用いられている(時間・空間など)が、これも同じように私たちが、それらを一対にして考えるような工夫を示しているのである。



−『国語・カウンセリングと一般意味論』 明治図書より−


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